世界に類のない
多種多様な和紙の魅力を伝えるために。
1400年以上もの歴史をもつ和紙には、日本各地でそれぞれ発展していった経緯から、地域によって異なる特徴、色、模様を持つ様々な種類が存在します。さらに、“手漉き”“機械抄き”という製法の違いをあわせると、世界でも類をみない程の豊富な種類展開となり、その用途は、無限の可能性を秘めています。
伝統的な和紙原料は、洋紙の主な原料である木材パルプに比べて、繊維が長く強靭な紙質となり、中性紙である為、劣化が少なく耐久性があります。それらの特性から、世界中で版画をはじめとするファインアートの支持体として好んで使用されています。
私たちMORIKI PAPERは、1925年創業の“和紙輸出専門商社”として、長年の経験と知識、産地と直接連携を図りながら把握した最新情報をもって、お客様のご要望に叶う和紙を提供できるよう努めております。
世界中の修復機関で使われている、
MORIKI PAPER の和紙
日本国内のみならず、海外の国公立図書館や公文書館、博物館、美術館に納められている数々の文化財や芸術品を修復する現場において、和紙は欠かせない素材となっています。特に、格を原料とする和紙は、その繊維の特性が生み出す強靭性、中性紙である故の劣化の少なさ、耐久性などが重宝されています。
修復の対象となる文化財や芸術品そのものの素材、修復を必要とするレベルや方法、予算などによって、求められる和紙の条件は様々です。私たちの提供する和紙は、30年以上に渡り国内外の数多くの修復機関からご信頼をいただき、今日も修復の現場を支えています。
アーティストの感性を刺激し、
その創作活動を支える。
海外において、古くはレンブラントにはじまり、ピカソやシャガール、そして現代ではデヴィッド・リンチ等多くのアーティストによって、作品素材として愛用されている和紙。石版、銅版、木版、シルクスクリーン、活版などの各種版画はもとより、ドローイング、造形など、様々な表現の支持体として使われています。
そもそも和紙の伝統的用途が存在しなかった海外だからこそ、手に取った方がそれぞれ、豊かな感性と自由な発想でその特徴を理解し、幅広い用途に使用していった結果だと、わたしたちは考えます。
MORIKI PAPERはこれからも、国内外のより多くのアーティストの皆様に、素材として大きな可能性を持つ和紙をご提案してまいります。
森木ペーパーの歩み
創業一族である森木家は、長らく高知県伊野町で紙漉きを行う和紙の生産者だった。土佐典具帖紙の開発を始め、数々の和紙生産技術を改革した郷土の偉人である吉井源太の代表的な弟子の一人が、創業者である森木安美の叔父にあたる久松林之助であった。当時は幕末の動乱期であり土佐藩は財政に苦しんでいたが、吉井源太とその弟子たちの働きにより「土佐和紙」が一大産業として発展し、地域の財政を建て直すきっかけになった。
現在の森木ペーパーの前身である「森木紙店」は、1925年(大正14年)に横浜で創業。創業した人物は、明治36年に高知県の伊野町に生まれた森木安美、現在の3代目社長である森木貴男の大叔父にあたる人物である。
安美は紙漉きを生業とする家庭に生まれ、幼少期から実家の仕事を手伝い、冬場には大人たちにまじって水仕事を夜遅くまでやるなど、生産者としての苦労を一通り体験した。
しかし、訳あって実家の和紙工房は廃業してしまい、地元の土佐紙株式会社に入社。横浜の配属となり、当時、日本を代表する貿易港であった横浜で外国人相手に商談をするなど、その身をもって貿易の現場を体験した。当時の横浜は日本の表玄関であり、和紙は日本の主力産業として大量に輸出されていた。
その後、会社の手漉き和紙部門の廃止に伴い独立を決意。しかし、支那事変が起こると貿易の風当たりは強くなり和紙の輸出は皆無となった。間もなく太平洋戦争が勃発、戦時中は軍需用品を製造することが優先され、和紙の産地では風船爆弾が作られるなど、和紙をはじめとする伝統工芸品は必要とされる機会がほとんどなかった。戦後赴任先のフィリピンから戻り、ようやく和紙の輸出業社として再出発を切った安美は、以前の取引先や知人経由でのルートを探り、各商社に和紙の「見本帳」を配布した。すると、海外からの注文が次々と舞い込んだ。
海外の人々は上質な和紙を求めており、安美は高知や岐阜、島根など全国をまわり、紙すきに熟達した各地の職人たちを訪ねては協力をあおぎ、ふたたび大々的に和紙を輸出する仕組みを整えた。
この頃から、輸出の窓口を一国一店にすることで過度な価格競争を避けながら「森木紙店」は諸外国の代理店から信頼を得るようになり、販路も拡大していった。以後、日本各地の様々な和紙が海を渡っていくことになる。
1974年創業者の安美から事業を直接引き継いだのは、安美の甥であり、現在の代表である貴男の父伸二だった。初代の時代から海外交流は盛んに行われていたが、取引に関してはあくまでも為替の問題などから国内商社を通してのやり取りが多かった。そのような状況から一歩前進し、二代目の伸二の時代から、アメリカとは1979年、西ドイツとは1983年に直接取引を開始し、欧米への輸出がさらに本格化した。
国内の商社やブローカーを通じた取引から、諸外国との直接のコミュニケーションに。越前や土佐などの産地の和紙組合とも連携し、海外で紙漉き実演会の開催や展示会への参加を増やしていく一方で、海外からのお客様を紙漉きの産地に案内するなど、積極的に行うようになった。
1990年代に入ると、輸出向け和紙は新たなる問題に直面していた。関係者に欧米各国の和紙の事情を聞いたところ、元々流通していた和紙と同じ名前で本来の紙より質の低いものが、市場に出回っているという。さらには東南アジアで生産された紙も和紙として販売されているものもあると聞き危機感を抱いた。また、1990年台後半には欧米で長年のパートナーだった会社が大企業に買収されたり、オーナーが変わるなど、和紙の海外の市場が大きく変わった時期でもあった。このような現状を目の当たりにした貴男は、それまで勤めていた会社を辞め2000年に会社に加わり、顧客が望む上質な和紙をふたたび供給することを使命として全国の和紙を知り尽くした父と共に諸外国に積極的に赴き、一層の情報交換を行うようになり、やがてオーストラリアやシンガポール、マレーシアなどにも販売パートナーを増やしていった。
父の伸二から貴男が事業を引き継ぎ、三代目の代表となったのは2008年のことだった。
その年の6月にカナダ・トロントで開催された「世界和紙サミット」は、森木ペーパーの北米パートナーであるJPP(The Japanese Paper Place)が企画した大々的なイベントであった。日本から三人の若い紙すき職人と共に現地に出向き和紙制作の実演はもちろん、1か月以上にわたり市内約30箇所以上のギャラリーで一斉に和紙を使ったアート作品が展示され、市内の美術館や博物館、図書館、美術大学などで様々な和紙関連のレクチャーやワークショップも開催された。様々なジャンルの企業やアーティスト、修復家、クラフト作家など、日ごろ和紙を利用している人々と生産者(手すき職人)が交流する貴重な機会となった。
会社設立当初から取引の中心は欧米だったが、この頃から更にベトナム、インド、インドネシアなどのアジア各国や中東へと販路が広がっていく。同時に、海外パートナーとの展示会出展や、文化財保存修復学会などに定期的に参加し、最終ユーザーの声を直接聞くために版画・製本などの工房や美術品などの修復工房への訪問の頻度も増やしていった。また国内の産地にも積極的に出掛け、工房の様子を伺うと共に、海外のユーザーの意見を伝えている。
2014年には、石州半紙、本美濃紙、細川紙の3つの伝統的な手すき和紙の製法がユネスコの無形文化遺産に登録され、和紙本来の価値が改めて世界的に大きく注目を集めるきっかけとなった。日本全国にはこの3つの和紙以外にも、それぞれの風土を生かした素晴らしい手すき和紙を作るところがまだ全国に100軒以上あると言われている。しかし、こうした地域の特性を持つ数多くの和紙が存続していくためには、全国の和紙産地で、地域産業として和紙づくりが残っていかなくてはならない、貴男は常にそう考えていた。
森木ペーパーの輸出の相手先は世界30か国を越えた。それを可能にしたのは、まさに言葉や文化の違いを乗り越えて、本当の意味で和紙の作り手と使い手とを繋いでいるからに違いない。和紙に対する強い思いは創業当時から今も変わらず受け継がれ、次なる時代へと続いていく。
取材・文: 村式株式会社